熊本地震

その他
04 /17 2016
亡くなられた方のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
そして、今も避難されている皆様が、今後ご無事でいられますように。

5年前の東日本大震災の際には、日本だけではなく世界中の皆様からご支援を賜りました。
今回は、その恩を返す時なのでしょう。

微力ではありますが、できる限りの支援を継続していきたいと、強く思います。


差し当たっては、わずかながらの経済的支援から。
東日本大震災の際には、お金を送ってもいつまでもプールしているだけだったり、どう使ったのかがよくわからない団体もよく耳にしました。
そんなわけで、そういった団体は避けて、活動も公表していて緊急性も高く、頼りがいがありそうなシビックフォースに送りました。

しばらく経てば、経営者などで支援が必要な人・団体も出てくるかもしれませんので、クラウドファンディングにも要注目ですね。


なんとなく投稿

その他
04 /09 2016
久しぶりに記事を更新してみようかなと。
2年半振り。


今日、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの「自省録」を読んでいたら、

「昔起こった出来事をよく眺め、現在行われつつある全ての変化を眺めれば、未来のことをも予見することができる。」

と書いてあり、至言だと感じました。
聞いたことがあるような内容ではありますが、2000年ほど前にもそう言われていた点に、温故知新な響きを覚えました。


一瞬にして過去のものとなる今この瞬間を、必死で生きたいものです。
それを後で振り返られるように、またブログを書いていくつもりです。
(すぐに飽きるかもしれませんが。)


とりあえず、ランニングや読んだ本について感じたことなんかを、サラッと書いていきたいと思います。


ランニングについて。
今年の目標レースは珠洲100キロ。
14年ぶりの100キロマラソンなので、間違いなく命に関わるランニングになるでしょうね。

生きて帰ってこられたらいいなぁと思います。

今年のブログを振り返る

その他
12 /24 2013
今年は13の記事をアップした。
それぞれ読み返してみると、わざわざブログに書くほどのものではないと感じるものが多い。
例外は、昨日アップした記事ぐらいである。
(お時間ありましたら、読んでいただけると嬉しいです。)

さて、その昨日のブログを書いていて思ったのだが、そもそも私は何のためにブログを書いているのだろうか。
ひょっとすると、ブログを初めて書いた2004年以来、ほぼ惰性だけで書いてきてしまったのかもしれない。

今日からは、ブログを含めて、ネットとの向き合い方を再考してみようと思う。
どうも、私はマルチタスクな作業が苦手であり、ネット上でサクサク行動することが難しい。
そんなわけで、ネットの時間を1日1時間程度にして、時間を節約しようと思う。
(ただし、青空文庫は除く。)
ブログはほぼ更新しないことになるだろうし、FBもあまり見ないことになるだろう。


何かドラスティックな出来事があった時などは、お伝えもしますし、ブログも使うようになるかもしれません。
その時まで、しばらくさようなら。

古典を読め

その他
12 /23 2013
先日、縁あってFMたいはくのラジオ番組に出演させていただいた際に、若いときには古典を読むべきだという話をした。
以前にも古典を薦める旨の記事を書いたことがあるが、今回の記事では、もう少し踏み込んでみようと思う。

昨今に出版された本(広義では、本のみならずメディア全体)を読む必要性が低いのは、現象的な内容にしか触れていないものが多すぎるため、ハズレを引く確率が異様に高いからだ。
たとえば、日本経済の低迷については、本質は経産省のサイトに書かれているとおりであり、これをさらに掘り下げれば、「日本人の物的ニーズはほとんど満たされており、精神的ニーズ(サービスなど)は心にあるから見つけにくいこと。」「海外のニーズは、海が邪魔をするから見つけにくいこと。」などが挙げられる。
しかしながら、本を含めてメディア全体を賑わせているコンテンツは、「アベノミクスの不振」「グローバル化の不振」「金利の低迷」など、原因からの帰結としての現象に過ぎないものが多い。
もちろん、現象面について述べることは、受け手側の理解を促すこともあるから、それ自体は悪いものではない。
世界における日本経済のプレゼンスの低下が、アジアやアフリカのライバルが出現したことによるものだということは、「AKBや乃木坂の台頭によりモー娘。の影が薄くなったのと同じである。」といった具体例の方が、人によっては腑に落ちるだろう。
とは言え、それは「プレイヤーが増えれば競争は激しくなる」という本質を伝えるための手段に過ぎないものであり、原因からの結果や並列する現象のみを述べたところで、内容は空虚なものにすぎない。
このようなものにばかり触れることは、本質に迫ることができないだけではなく、時間の無駄遣いとなり、害悪ですらあるだろう。

一方、古典には、現象の背景を考えるヒントが書かれていることが多いと思われる。
なぜなら、長い年月を経て世に残っているということは、その作品が世に生まれてから常に必要とされてきたことの証左であり、個別の時代における現象のみならず、より普遍的な事柄に触れている可能性が高いからだ。
たとえば、セネカの「生の短さについて」という時間術の本が2000年のときを超えて現代に残っているのは、「人生には、成し遂げたいことをするだけの時間は十分に残されているが、余計なことをしているから時間がないように感じる。」というその趣旨に、小手先の時間術とは一線を画した普遍性が内包されているからだと考えられる。
他方で、もし「iphone時間術」という本があったとしても、恐らく10年後には消えているだろう。
それは、現代のほんのわずかな時間においてのみ有用なものであり、効果は非常に限られたものだからだ。
ところで、私はほとんどニュースを読まないが、その理由は、セネカの思想からすると、それが時間の浪費だとしか感じないからだ。
メディアがほとんどなかったであろう2000年前ですら、時間がないという嘆きが存在したことの意味は、それほど大きいと捉えている。
現代風の時間術では、いかに少ない時間でたくさんの情報に触れるかが重要になるが、それは素から断つことほどの絶大な効力はない上に、非常にテクニカルなものとなるだろう(※)。

確かに、私たちは現代に生きる以上、その現象の影響から逃れられないことは明らかである。
しかしながら、その表層の奥にある背景を見ようとする努力を怠ってはいけないと思う。
特に、若い頃にそういった汗をかくことで、より本質的な生き方ができるのではないかと考えている。

普遍があるかどうかなど、わかりえることではないから、それを求めることは、お釈迦様の手の上の悟空みたいな空しいものかも知れない。
それでも、他人が作った仏像の手の上よりはマシだろうし、少なくとも自分で描いた世界にある仏像の手の上を走り回りたい。


(※)
もちろん、成し遂げたいことについては、情報はたくさん取得していくのも有用だと思う。
たとえば、スマホのビジネスで成し遂げたいことがある人は、それに関わるニュースはどんどん手に入れるべきだ。
要するに、古典は世界観を形成するのに寄与し、昨今の本は作戦や技術レベルで役に立つ。
やりたいことは末端の知識まで知っておいて、興味がないことは背景知識のみに留めることで、時間の無駄遣いがなくなると思う。

克つことを目指して

その他
12 /17 2013
先日の忘年会で、克つことの意義を教えて頂きました。


かつて、学生トライアスロンに真剣に取り組んでいた時は、チームとしての目標はインカレ優勝であり、個人のものとしては、その団体メンバーに絡むこととしていました。
要するに、他者に「勝つ」ことが、最も大きな目指すところでした。

一方、現在は、それまでの自分よりも、少しでも速くなることを目指して走っております。
より正確に言えば、それに加えて、日々の鍛錬を続けることにより、速さ以外の何らかの意味が浮かび上がることを期してもおります。
特に、怠けたいという心に「かつ」ことを志しておりまして、これは漢字に変えると「克つ」となります。
勝つと克つは比べるものではないのかもしれませんが、強いて言えば、私が人生を通して追い求めたいものは、己に「克つ」ことだと考えております。

振り返ってみると、練習の効率が多少悪かったり、ポイント練習で狙ったタイムが出なかったりした時に、志向の違いが態度の違いとして表れていたかもしれません。
例えば、脚が筋肉痛だからと言ってオフにしたり、タイムが出ないからと言って無理をしない程度に力を抜くことが度々ありました。
これらは、「勝つ」という側面からはともかく、「克つ」ことを目指すものがやることではなかったように思えます。
万一、生理学の理論としてベストではなかったとしても、己に克ちたいのであれば、ただ黙々と走ることもまた大切なのでしょう。

勝つことのみを目指すのではなく、克己への道すがらにおいて、それを拾っていきたいものです。

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