雑多に、思いつくままに
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先日の忘年会で、克つことの意義を教えて頂きました。


かつて、学生トライアスロンに真剣に取り組んでいた時は、チームとしての目標はインカレ優勝であり、個人のものとしては、その団体メンバーに絡むこととしていました。
要するに、他者に「勝つ」ことが、最も大きな目指すところでした。

一方、現在は、それまでの自分よりも、少しでも速くなることを目指して走っております。
より正確に言えば、それに加えて、日々の鍛錬を続けることにより、速さ以外の何らかの意味が浮かび上がることを期してもおります。
特に、怠けたいという心に「かつ」ことを志しておりまして、これは漢字に変えると「克つ」となります。
勝つと克つは比べるものではないのかもしれませんが、強いて言えば、私が人生を通して追い求めたいものは、己に「克つ」ことだと考えております。

振り返ってみると、練習の効率が多少悪かったり、ポイント練習で狙ったタイムが出なかったりした時に、志向の違いが態度の違いとして表れていたかもしれません。
例えば、脚が筋肉痛だからと言ってオフにしたり、タイムが出ないからと言って無理をしない程度に力を抜くことが度々ありました。
これらは、「勝つ」という側面からはともかく、「克つ」ことを目指すものがやることではなかったように思えます。
万一、生理学の理論としてベストではなかったとしても、己に克ちたいのであれば、ただ黙々と走ることもまた大切なのでしょう。

勝つことのみを目指すのではなく、克己への道すがらにおいて、それを拾っていきたいものです。


【2013/12/17 00:18】 | その他
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選挙が終わって、10日ほどが経過した。
投票するのは権利というよりはマナーだろうと思っているので、今回も投票したが、まあ特に何も変わらなかった。
変わらなかったどころか、選挙直後というタイミングで、実は放射能をずっと海に垂れ流してました。テヘッ。みたいなニュースとかもあったりして、むしろ気が滅入った。
タイミングを考えれば、政治的な意図があったとしか思えず、選挙民を愚弄するようなマナー違反だ。
ホント、政治の世界ってひねくれまくっている。
ねじれの解消なんて言葉にだまされちゃいけないな。
アホくさくて投票しなかった人の方が、機会費用の面から言えば、よほど合理的で賢いのかも。

ところで、最近(って、ホントここ10日ぐらい)よく走っていて、1日10キロはノルマとして走っている。
そのおかげで、翌朝起きると、脚の筋肉痛がひどい。
下手すると、起床直後だけではなく一日中脚が重くて、ひどいひどい。
でも、これがとても懐かしい感覚で、一生懸命トライアスロンの練習をしていたころを思い起こさせて、ちょっと心地いい。
大げさだけど、世界が変わったような感じがする。


なんとなくわかってきたことが一つある。
それは、世界をいいところに変えられなくても、世界をいいところだと感じられる気持ちに変えることはできるということ。
つまり、世界は変えられなくても、世界観は変えられる。
振り返れば、片想いとかも、世界は何も変わっちゃいないけど、世界の見え方は変わるよね(確か)。

別にエネルギーがどうなろうとも、重い脚でランニングしていれば、チャリのペダルを回していれば、それだけで幸せだよ。
別に政治がどうなろうとも、投票行動と整合性のある行動はしたいしね。


追記1
夏は汗だくになりすぎるので、(仕事中の移動での)チャリは控えることが多くなっています。すみません。


追記2
ブログでべらべら書くのが飽きてきたので、更新頻度が落ちると思います。
年に2,3回ぐらいを目標に更新します。
たまに除いてくれていた方々、ありがとうございました。


追記3(8月2日)
読み返すと、なんだかわがままでセルフィッシュな記事・・・
決して、世界に対して何も努力をしないということではなくて、その努力以上に、自分の世界の捉え方は大切だと思っただけでした。
デカルトの「方法序説」には、以下のようにあります。

(前略)世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めることであった。一般的にいえば、私どもの権力の埒内にそっくりあるものは私どもの思想だけである。したがって、私どもの外なるものについては最善を尽くしたのち、なお私どもの成功を妨げるものがあれば、私どもとの関係上、そのものはすべて絶対的に私どもの手の及ばぬものであると信ずるように自分をしつけること。この格率はただこれだけで、自分には得らるまじきものを未来に得ようなどと、むなしい欲望をおこさないために、つまり足ることを知れと戒めるために、十分であると私には思われた。


最善を尽くしてそれでダメだったとしても、その世界を見て笑えるようになりたいな。

【2013/07/30 17:54】 | その他
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読書の夏ということで、最近の読書についての気付き。


基本的に、古典を中心に読んでおけば間違いないという考え方には変化はない。
それは、古典は長き時代の淘汰圧の中で残っている以上、本質的で普遍性が高いことが書いてある可能性が高いという考えに基づいている。
しかも、ありがたいことに、異様に安い。
例えば、岩波文庫で1000円を超えるものは殆ど無いし、古本屋さんでは100円ぐらいで売っている時もある。
この対費用効果を考えると、とてもじゃないが新刊を買う気がしない。
特に、ビジネス書の大半はゲームの攻略本みたいなもので、仕事での問題に対する解答が載っているだけで深みがない。
ゲームの難易度は下がるが、面白みや気づきは失われる。


それが故に、読むべき本は古典だけで十分だと考えていたが、実は新本の中にも、時折読むべき本が存在することが解った。
それはどういうものかというと、著者の主張が古典に基づき、尚且つ、それに自説を加えているような本だ。
最近読んで面白かったのは、「弱者の兵法」と「正しい判断は最初の3秒で決まる」の2冊だ。

前者の「弱者の兵法」は、楽天元監督の野村克也さんの著作だ。
ノムさんの本は以前にも読んだことがあったものの、当時の自分が古典作品の知識に乏しく、適切に評価できていなかったが、今は多少は理解できているつもりである。
ノムさんの考え方は、論語に代表される東洋思想に大きな影響を受けていらっしゃるようである。
作品全体にそれがにじみ出ており、例えば中国故事が端々にでてくることからも、それが伺える。
タイトルに兵法の文字を使ったのも、孫子を意識してのことなのかもしれない。
論語を現代に応用した場合の実体験からの訓示であるから、その重みは「もしドラ」の比ではない。
新たに買う価値は十分、もし古本屋で見かけることがあれば、即買いすべき本だ。

後者は、プライベート・エクイティ・ファンドで活躍されている慎泰俊さんの著作だ。
今までの作品もそうだが、慎泰俊さんの作品は、古典からの引用が多い。
「じゃあ、自分独自の考えは少ないんだね」ということではなく、ご自身の考えを裏付けるものとして古典を引用している感じだ。
これは2つの点で、大きな意味があると思う。
1つは、古典と共通する考えを示すことにより、普遍性があることのシグナルを灯すことである。
新本とはいえ、今だけではなく今後も古びない考えである可能性が高いことを示している。
もう1つは、この考えは自分だけのアイデアではないという謙虚さを示すことだ。
アイデアのオリジナリティは悪魔の証明であり、どこまでいっても理論的な証明は無理である。
真実は、発案者本人しかわからない。
また、アイデアの発案者ですら、オリジナルだと思っているものが、昔見聞きしたものそのものであったりすることもある。
少なくとも、影響を受けていることは確実であり、それらを全く受けていない人間は皆無である。
それを考えると、アイデアというものは、どこからが自分のものでどこからが他人のものなのかの境目は、オリジナルだと思われるものでさえ、極めて不明確だ。
それ故に、その影響因子を提示することは、パクリ全盛のこの世において、謙虚さという大切な美徳を提示していると感じた。

上記2冊の内容については、ここでは触れないので、気になる方には、ぜひ読んで頂きたい。

ちなみに、慎泰俊さんはまだ32歳とは思えない成熟した文章を書くので、今後も要注目。
旧ブログにも、素晴らしい文章がたくさんある。
(もちろん新ブログもそうですが、先ずは旧ブログを推します。)

【2013/07/03 22:45】 | その他
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(かなり長文・・・かなり時間がある人だけお読み下さい。)


「なぜ地域を守らなければならないのだろう?」

昨日の酒の場で出た問いだ。

その場にいた6人中6人が、守ることに対しては賛成していたが、この問いに対しては、様々な解答が出た。
「自分の残したいものを後世に伝えるため。」「地域と言うよりは、そこに住む人に答えがある。」「(アポリアのようなもので)生きているうちに、答えが浮かび上がってくるのではないか。」などなど。
「地域を守るべきか?はい、いいえ」という問いはあの6人にとってはそれほど意味を持たなかったかもしれないが、上記の問いは、これからも考えるべきものなのだと思う。

個人的には、「地域」という言葉が引っかかった。
例えば、私にも、この地において守りたいものがある。
海を舞台にした産業、マリンスポーツ、自然とともに生きることの豊かさ・・・
しかしながら、この地に住む他の人々と私とでは、それぞれが見ている塩竈・七ヶ浜は異なったものだ。
平安の頃から歌に詠まれる松が浦島、汐見台から眺めた陸海空の一大パノラマ、多聞山からの偉観、ひょっとしたら田園地帯の眺めの方をより好む人もいるかもしれない。
隣の塩竈ともなれば、更に見ているものは変わるだろう。
それ故に、各自が見ているもの、考えているものを抽象化した「地域」という言葉にも、人によって大きな差異が生じているはずである。
かと言って、「地域」の意味するところを統一的にしようとすると、七ヶ浜らしさや塩竈らしさを切り捨てた、乾いた機能しか残らないとも思った。
「地域」という語を、「ある程度の人数が住んでいる、都市部以外を指すことが多い土地」と定義したとして、私達が求めているような議論が深まる可能性は低い。
よって、「地域」という語に差異が出てくることは避けられないが、それを受け入れるしかないとも思う。

次に、「地域」という語の差異ではなく、重なりについて考えてみたい。
確かに、この語の意味するところが各自で異なっていたとしても、重なる部分があることも事実であろう。
私と塩釜湾・松島湾(以下、千賀の浦)を囲む人々が考える「地域」には共通する部分もある程度はありそうだが、私とブラジル人が考える「地域」は重なり合う部分は少ないだろう。
これは、何もブラジルには「地域」がないという話ではなく、ブラジル「らしさ」と千賀の浦「らしさ」は随分と異なるという意味である。
この「らしさ」は、モヤッとしてはいるけれども、「地域」を考える上では、重要な概念だと思う。
住んでいる人々それぞれが見ているものは違っていても、自分が住むまち「らしさ」については、共有している部分が大きい気がする。

表題の問いに戻ると、「「らしさ」を後世に残すため。」と自分は答える。
この問いは古くて新しい問いだろうから、今後答えが変わることもあり得るけれども、今はそう考える。

この問いについて考えていると、ジャン・ジャック・ルソーの一般意志の話が浮かんでくる。

ジャン・ジャック・ルソーが主張した、以下の3つの意志と1つの命題について主張しました。
・特殊意志は、個人の意志
・全体意志は、個人の意志の総和
・一般意志は、共同体の意志
・一般意志は共同体全員の利となるものだが、全体意志は共同体全員の利となるわけではない。
例えば、民主主義は、全体意志を反映させるシステムに過ぎず、一般意志を表すことはできません。
多数決によって選ばれた政権与党は、個人の意志の総和ではありますが、それをもって共同体の意志だとは言えません。
ですから、自民党が国民全員にとって利益をもたらすとは限りません。
(とは言え、ルソーの一般意志については、長い間議論の的になっていますから、ここまで単純化した話ではないでしょう。
気になる方は、ぜひ「社会契約論」を読んでみて下さい。)


「らしさ」は、一般意志に近いものではないかと考えている。
普遍的で、それを具体的に言い表すことはできないけれども、私たちの生活を豊かにしている何か。

枕草子や伊勢物語などにも、度々その地名が現れる塩竈や七ヶ浜。
そして、源氏物語の光源氏は源融がモデルと言われ、こちらの方はえらく塩竈が気に入ったそうだ。
京の都に帰ってからも、同じように塩を炊いていたそうで、今の京都にある本塩竈町の名前は、このエピソードが遠因となっている。
また、源融は嵯峨天皇のご子息の一人だが、皇族と千賀の浦界隈の繋がりはこの時だけではない。
1920年代中頃に、東北地方に皇室の御用邸(避暑地、避寒地としての別荘)をつくる話が出た時に、候補地となったのは七ヶ浜だ。
惜しむらくは、県議会も通りいざつくるとなった時に、大震災が関東を襲ったことだ。
計画はできていたにもかかわらず、御用邸の話は二の次、三の次。終いにはご破談となってしまった。
それでも、せめてこの話を後世に伝えるためにということでできたのが、今の君ヶ岡公園だ。
君が代と同じく、君主がための邸宅ができた・・・はずだった公園ということだ。

このような話からは、「らしさ」を追求するための、大きな手がかりがあるように思う。
この話はとても興味深いし、これからも残していくべきように思うが、本当に大切なのは、これらの根底に流れるものだと考える。
古くからのエピソードや現在の海を中心とした産業、そして素晴らしい景観。
これらの素になっているものは、目には見えないけれども、昔から変わらない形で存在しているのだろう。

この目には見えないという点が、私達が苦しむことになる所以なのだと考える。
人間は価値を追う生き物であると同時に、楽を望む生き物だ。
だから、目に見える価値と見えない価値があるとすれば、前者を追いやすい。
その理由は、その方が楽だからだ。

しかし、私には後世に残したいものがある。
この地に住む人々に、ずっと恵みをもたらしてきた「らしさ」を、ずっと追いかけて行こうと思う。


グダグダ管を巻いてきたけれども、ブルーハーツの「情熱の薔薇」の歌詞が最も解りやすい。
「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部
でたらめだったら面白い そんな気持ち分かるでしょう

答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方
涙はそこからやって来る 心のずっと奥の方」
はいすくーる落書2の主題歌として、初めてこの歌を聞いて涙した時のことを忘れずに、ずっと奥の方にあるものを追って行きたい。


長文になってしまいましたね、読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。

【2013/06/19 01:45】 | その他
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(この前、鹿島台に言ったら田んぼだらけで、懐かしくてよかった!」
ということを言おうとしただけなのに、やけに長文になってしまいました。
ごめんなさい。
相~当~お暇な方だけお読み下さい。
時間を奪ったことに対する責任は負いません。

ただ、時間がない方でも、最後の方にある「おーい、でてこーい」は見る価値がある動画だと思います。)


先日、鹿島台に行く機会があった。
駅から目的地まで3キロ弱。
駅前の少し賑やかな町通りを離れると、程なく広大な田園地帯が広がった。
驚いたのは、目に飛び込んでくるその光景よりも、鼻の奥をくすぐる春の匂いである。
見た目には駅周辺の桜の木の方が春らしいのかもしれない。
しかしそれ以上に、田植えが終わったばかりの土や苗、森に潜む新生の息吹が、季節を感じさせてくれる素敵な香りを醸し出していた。
もちろん多賀城や七ヶ浜にも桜の木はあるのだけれども、嗅覚で春を感じさせてくれるような場所は、宮城県北部に比べると少ないかもしれない。
むしろ化学臭が漂うところも多く、自転車で産業道路などを走っていると、気分が悪くなることも多々ある。
タバコは主流煙よりも副流煙の方が有害であるのと同じく、車もドライバーよりも歩行者やチャリダーの方が毒を吸っている事は間違いない。

懐かしい匂いがした。
七ヶ浜の浜辺は実家である輪島の袖ヶ浜に似ていて、鹿島台の田園地帯は山岸の婆ちゃんち周辺を彷彿させる。
後者は一見似ているわけでもないのだけれども、鼻が似ていると言っていた。
その匂いのおかげで、とても満たされた気分になった。


少し前に、「マクドナルドのハンバーガーは、どれだけ時間が経とうとも腐らない」といった旨を伝えるネット記事を見た。
それを見てどう解釈するかは、人それぞれ。
私は、「効率化の追求による自然との断絶」が一つのテーマだと捉えた。
このテーマから湧くのは、「自分は何を食べるべきか?」引いては、「自分はどういう生き方をすべきか?」という問題であり、マックのハンバーガーを避ければ済む問題ではない。
食べ物で言えば、x軸に「生物」-「無生物」軸を取り、y軸に「スロー」-「ファースト」軸をとる座標軸の中で、どこに位置づけられる食べ物を取るかということだ。
130424パーセプションマップ
マックとモスはまだしも、それらと同列で星のり店はおかしくないか?という声は・・・却下。
自分がどう捉えるかが重要なので、自分が分かりやすい基準を持つことに意味がある。


ところで、これも(今回ではなく)鹿島台に行った時の話だが、老子の話をして下さった方がいた。
何かを付け足していくのではなく、そもそも既に満たされているという考え方。
調べてみたところ、老子33章にある
「知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。」にある、
「足るを知る者は富む」
という思想が、おっしゃっていたことかと思われる。
金を得て幸せになるということではなく、既に幸せは自分の手の中にあるという考え方だ。
GWは、金を使ったレジャーもいいけれども、タダ(もしくはタダ同然に安い)自然に触れるのもイイかもしれない。

しかも、自然は人間が生み出せないような不思議なものを生む。
一例を挙げると、ホタルの光は冷たい。物理的に冷たい。
(すいません、どんな仕組みなのか解っていません)
ホタルの光が涼しげなのは、暑い夏の太陽が落ちた時間だからということだけではなく、実際に冷たいのだ。
人間が作る灯りは、どうやったってエネルギーを使って熱を帯びてしまうのだから、これは人智を超えた凄いことだ。
世界は、万物の霊長(霊は不思議という意味)の想像を超えた、驚くほどの不思議に満ち溢れているのである。

自然は、社会に応用できる学びももたらしてくれる。
経済の場面で言えば、商品ライフサイクルは春夏秋冬のごとく移ろい、企業のM&Aは細胞内共生のごとく振舞う。
人が社会の中で産み出す概念は、大抵は既に自然の中にあるのではないか。
バブルが崩壊することも、ルシャトリエの原理からすれば当然だ。
そしてさらに、同じくルシャトリエの原理で言えば、効率性を高めるほどに、地球からのしっぺ返しも大きくなるということだ。

これからも効率化は多くの人々が生きることを可能としてくれるのだろうけれども、それは大量のエネルギーを前提としている。
人は、長い年月を経て地球上に眠っている資源を、誰の断りもなく強奪している。
今までも、そしてこれからも。
そのような放埓の限りを尽くした後、地球上のエネルギーが完全に枯れ果ててしまった時に、賄い切れない人をかかえた人類は、一体どうなるのだろうか。
そんな時でも、地球は我々を助けてくれるのだろうか。
残念ながら、それはないと思う。
先ほど、細胞内共生という言葉を挙げたが、それが成り立つのは、ある種のギブ・アンド・テイクがあってこそだ。
真核細胞にとっては「酸素を無毒化させられれば・・・」、ミトコンドリア型細胞にとっては「データを管理するしくみがあれば・・・」というそれぞれのニーズを、お互いが満たしてくれたからこそ、両者が一つの細胞の中で生きることができたのである。
そして、そのギブ・アンド・テイクが数十億年を超えて、私の細胞の中に細胞核とミトコンドリアとして生きているのかと思うと、大変感慨深い。
一方、人と地球は、このような関係性にはない。
人は地球に対してはがん細胞みたいなものであり、害はあれども益は全く持ち合わせておらず、一方的なテイクのみである。

がん細胞と異なる点としては、宿主の方が圧倒的に強く、寄生して支配し尽くすことはできないことだろう。
そして、地球の歴史上5回の生命体大量絶滅があったことを考えれば、私達がその後を追うことは十分あり得る。
それも、予想以上に早く。
後に、地球上に知的生命体が現れた頃、その歴史の1ページには「大量絶滅の中で、最短で絶滅した生物」としてホモ・サピエンスが載っていることだろう。
「自分たちのことを霊長類と呼んでいた。」という記述に、未来の知的生命体がウケてくれるのであれば、文字通り体を張ったギャグと言える。

効率化のそもそもの問題は、「効率化により、私は本当に豊かさを得ているのだろうか」というものだ。
産業革命からの歴史を見ると、エネルギーの利用により、肉体労働は減っているものの、知識労働はむしろ増えていて、効率化と言うよりは単に使用する部位が変っているだけな気がする。
働いている時間が減るわけでもなければ、幸福感が増えるわけでもない。
確かに古くの効率化は、大幅に肉体労働が減って大いに楽を得たのだろうけれども、昨今の効率化は80点を85点、90点にするようなもので、恩恵は少なくなってきている気がする。
掃除機がルンバになったら、そんなにラクなんだろうか?
(ルンバを否定しているわけではないです。念のため・・・)

更にいうと、頭脳重視の流れは生き方を画一的にしてしまい、多様性の欠けた生きにくい社会にすると思う。
ドラッカーはネクスト・ソサエティは知識社会が進み競争が激しくなると言っているし、既にそうなっているのだろう。
それでも、個人的な願いとしては、豊かさを感じられる別のポジションが存在する世界になって欲しい。
130424map2.jpg
気づけば右上の事象にいるとしても、そこだけが幸せを感じられる場所とは限らない。
今のポジション以外で幸せな場所はあるはずなので、そこを目指すことは自分らしさを見つける旅でもある。
人生をかける価値はある。

効率化は、将来へのつけを回している面もある。
原発にしても、エネルギーへの渇望の産物である。

星新一原作のボッコちゃんに収録されている「おーい、でてこーい」は、ある意味では3.11の福島原発を予言している小噺である。
(このアニメもいいですけど、原作はもっと寒気がするぐらいエグいです。。。)
今の人類は原発を産み出してしまう性質を持っているから、私は東電を叩く気は起きない。
自分だって、このエネルギー社会の構成員であり、その意味では加害者なのだから。
そんな自分が、今すぐできることは、低エネルギーで生きていく方法を考えて実践することぐらいだ。
移動は徒歩や自転車、公共交通機関を利用すること、使っている部屋の電気以外消すこと、ゴミ処理に無駄なエネルギーを使わないように心から欲しいものだけ買うこと・・・など。
本当にちっぽけなことだけれども、主語をことさら大きくせずに、まず自分がどうしたいのか?何ができるのか?が重要だと信じている。


鹿島台で懐かしい匂いで幸せな気持ちになれたのは、大きな発見だった。
世界は既に満ち足りている。
五感を研ぎ澄ませて、世界を感じて生きていこうと改めて思う。

【2013/04/24 21:41】 | その他
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