雑多に、思いつくままに


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う~ん、『だ・である調』がどうもしっくりこないので、これからは『です・ます調』で書きます。

昨日読んでいたコミュニティ―公共性・コモンズ・コミュニタリアニズム (双書 持続可能な福祉社会へ:公共性の視座から)という本に面白いことが書いてありました。
『子ども大学』の話です。

子ども大学はドイツ・ミュンヘンを中心に国内70か所ほどの大学で実施されているプログラムである。もともとはポーランドで都市の大学から学生が派遣され、地方に暮らす子供たちのために展開されたものが、ドイツ語圏において、研究機関や大学の開放日に子供たちのためのプラグラムとして展開されるようになり、2002年ごろから「子ども大学」と名付けられたとされる。ミュンヘンでは、市内にある全ての大学からの講義の提供が対象となっている。参加対象は学童期の子供で、大学教授や研究者はその子供たちを聴衆として講義する。多くの子ども大学では、子供たちの参加はすべて無料で、教授らも報酬は一切与えられない。


目的は、大学の知の子どもたちへの還元です。
そのこと自体もちろん意義があると思いますが、それに加えて私が注目したのは、大学教授の教育力にとっても有意義ではないかという点です。

大学教授は2つの面で期待されていると思います。
研究者としての側面と教育者としての側面。
このうち、前者はともかくとして、後者の期待にこたえることは難しいでしょう。
なぜなら、大学教授には、教育者として大成をなすためのインセンティブ(動機付け)が働かないからです。
うまく教えたとしても、金銭面で賞与がもらえるわけでもなく、しかも学生たちはサボる連中も多いとなれば、熱心に教えるだけ無駄だと考えるのも無理がない気がします。

しかし、子ども大学であれば、生徒たちはとても真面目です。
彼らは自発的に講義を受けに来ています。
講義をしていて最も嬉しいことは受講生たちが興味深く聞いてくれることですから、教える方も真剣になりますね。
脳の報酬系と呼ばれる部分は、限定された金銭的な報酬だけではなく、その人にとって価値があるものに対して広く反応するようですから。

また、小学生に教えるとなれば、必然的に分かりやすく教えることが求められます。
難しいことを分かりやすく教えられることは、これからの教育者にはとても大切な能力になると思います。
情報の媒体がマスから個人へ移った場合、その個人が教える対象は限りなく広がる可能性があるからです。
従来のように、大学教授は大学生にだけ教えられれば十分であるといった考え方を、シフトさせる必要があるでしょう。

本書では、ミュンヘンに習い、千葉大学で同様の取り組みがなされていることにも触れられていました。
また、私が住んでおります仙台では東北大学サイエンスカフェというものが催されています。
こういった取り組みがより広く行われ、教える力にも長けた大学教授が増えることを期待したいものです。
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【2010/01/28 20:42】 | その他
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