雑多に、思いつくままに


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(今回は4000字ぐらいあるので、毎回読んで下さる方も、時間がない時はご無理なさらないで下さい。)

7日の柴田高校でのキャリアセミナーでは、漫画のワンピースの話をしていて、そこからいきなり孔子やらアリストテレスやらの話をし始めたため、生徒を置き去りにしてしまった。
相手が高校生ということもあり、自分の高校時代の話から大学の話、加えて笑いを取ったりなど場を暖めるのに50分のうち45分以上使うため、本当に伝えたいメッセージを伝えるのには時間が全く足りない。
23日のオータムセミナーでも、ウケ狙いの話を多少減らしたとしても、同じことが起こりかねない。
そういうわけで、ここで内省も含めて、伝えたいメッセージを書いておこうと思う。


◯カクジズム
これからの時代は、各自が各自の思想「カクジズム」を持たなければならない。
佐藤さんなら佐藤イズム、鈴木さんなら鈴木ズム、自分なら瀬戸イズム・・・伊豆ムでもいいかも知れない。(※1)

今までは、大きな世界観「ビッグイズム」があったおかげで、各自の思想を確立する必要はほぼ皆無だった。
大きな世界観の最たるものとしては、経済発展=豊かさというものであろう。
大企業への就職、年功序列・終身雇用、大きな家を買う、カッチョええ車を買う・・・沢山お金を稼いで、沢山消費をすることが幸せな生き方というものだった。
しかし、経済発展が止まってからは、多くの人がこのような生き方が本当の豊かさにつながるのかに、疑問を覚え始めている。
この世のありとあらゆるものは変わりゆくものだから、支配的なビッグイズムと言えども、いつか朽ち果てることは自明の理だろう。
壊れかけのismは、何も聞こえない、何も聞かせてくれない。
「ほんとの幸せ教えてよ!」と言っても、土台無理な話であり、耳を澄ませて聞こえてくるノイズは、諸行無常の響だけである。

それでは、ビッグイズムが朽ち果てた後はどうなるか。
新しいビッグイズムが、従来のものに取って代わるのか。
私は、そうではなく、カクジズムを持つべき未来が来ると推測する。
本来、これだけ顔形や皮膚や目の色、生まれたところも違う者たちが、同じ思想を持つということが、そもそも不自然である。
これからは、生きる上において果たすべきことの一つとして、カクジズムの確立というものが、重要なものとなることであろう。
同じことは、マズローの欲求段階説の頃から言われているのかもしれないが、いよいよ真剣に向き合うべき時が来たのだと思う。(※2)

◯ONE PIECEに見るカクジズム願望
ところで、個人的に面白い現象だと感じることの一つに、漫画「ONE PIECE」に対する高い人気があげられる。
様々な理由があると思うが、その中の一つとして「海賊王に俺はなる!」というルフィの野望への共感があるのではないかと推測する。
ONE PIECEの興味深いところは、ルフィだけではなく、他のみんなも「世界一の剣豪になる」「自分の目で見た世界中の海図を描くこと」「勇敢なる海の戦士になること」など、それぞれ異なる生き方や目指すところを持っていることだ。
同じ一つの船に乗っている点では、確かにチームではあるが、SLAM DUNKの「全国制覇!」という目標の下で一体となる湘北高校とは、根本的に意味が異なる。(※3)
今の時代に、もしジャンプでONE PIECEとSLAM DUNKの両方が連載していたとしたら、どちらの方が人気が出ただろうか?
恐らく、ONE PIECEの方が人気が出たと思うのだが、どうだろうか?
(だって、コンビニでアルバイトをしていた頃、ONE PIECEの新刊が出ると50歳ぐらいのおじさんも買っていたけど、SLAM DUNKだとそれって想像できなくない?)
個人のイズムを持つことの大切さ、互いのイズムを尊重しあう関係性への憧れを持つ人が増えていることからすると、そういった結果になることが自然な気がする。

◯カンブリア大爆発とのパラレルな関係
上記のように、社会的には個人の思想を持つことの重要性が高まってきていると思うが、自然科学や応用科学的な観点からも、同様のことが言えると思う。
皆さん、カンブリア大爆発というものをご存知だろうか。
5億年ほど前のカンブリア紀に、生命の種類が爆発的に増えた現象である。
カンブリア
(こちらのページから引用しました。「カエルの子は蛙?」)
この爆発的に増えた生命体の多くは、あるものを持っていたのだが、それが何かお解りだろうか。
それは、眼の存在である。(※4)
端的に言うと、眼を持つことにより、餌の場所を正確に察知することが可能となり、生き延びられる確率が高くなったということだ。

人類の歴史においても、(物理的な眼球以外での)眼に当たるものは存在した。
その前に、「人はパンのみにて生きるにあらず」という聖書の言葉を確認しておこう。
人は、餌さえゲットできれば生きられるといった、単純な存在ではない。
「生きるとは何か?」「幸せってなんだろうか?豊かさってなんだろうか?」など、生きることに意味を求める動物である。
つまり、餌だけではなく、意味性への到達こそが、人間にとっては重要だということである。
それを前提とすると、眼に当たるものとして考えられるのは、ルネサンスの活版印刷術であろう。
印刷術という眼を持つことにより、多くの人が生きる意味に手が届きやすくなったのである。
実際、印刷術は聖書や思想の普及に大きな役割を果たし、宗教改革の遠因ともなっている。
支配者層の欺瞞が浮き彫りとなり、「改革、やっか!?」「やっぺ!!」という民衆の勢いを、抑えきれなくなったのである。

そして、現代において、人類史上第2の眼が登場した。
インターネットである。
活版印刷術の思想波及の効用はある程度に限られていたが、インターネットではより大きなものとなるだろう。
既にその萌芽は見られており、例えばアラブの春は単純なSNSの普及の帰結というものではない。
第2の眼の登場による、生きる意味への渇望の表出だとおもわれる。

では、政権が転覆した後はどうなるのだろうか。
もし、次なる政権が支配的なものだとすれば、それが長続きすることは難しいはずだ。
ネット社会では、何かを隠し通すことは困難を極めるため、それが不徳なものであれば尚更である。
それを思えば、これからの国家というものは、調停的なリーダーシップでしか収められないのかもしれない。
だからこそ、カクジズムを持つものは増えるだろうし、そうすべきだとも思う。
誰もが意味性への到達が容易になったことにより、カンブリア大爆発のような、思想大爆発が起こる可能性すらあると感じる。
(上のグラフの縦軸を思想数、横軸カンブリア紀をインターネット発展の時期と置き換えてみよう!)
生命は様々な餌を糧として生きられるようになったのと同様に、人類は様々な考え方を生きる糧とすればよいのである。(※5)

◯孔子の実践主義
皆さんにはカクジズムを打ち立てて欲しいし、私自身もイズムを打ち立てようとする道半ばである。
道中ではあるけれども、これからもずっと心がけたいものとして、行動主義というものがある。
孔子の論語の中に、私の好きな言葉がある。
「子の曰わく、君子は言を訥にして、行に敏ならんと欲す。」
(訳:先生(孔子)が言われた、「君子は、口を重くして、実践につとめるようにありたいと望む。」)
要するに、「ごちゃごちゃ言わずに、やったらいいじゃん!」ということである。
人類最初の思想家と言われる孔子が、このような考え方を持っていた意味は大きい。
自分の過去を振り返ってみても、行に敏であった時は充実していたように感じる。

また、「口を重くして」というのは、インターネットの時代においてはそぐわないのではないか?と考える人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。
この時代だからこそ、いいことも必ず広まるはずであり、放っておかれることはない。
同じく孔子の言葉を引用すると、
「徳は孤ならず、かならず隣あり」
(訳:徳のある人物は孤立しない。必ず共鳴者が現れてくる)
である。
だからこそ、必要以上に情報発信に時間を取られるよりは、自身のイズムを打ち立てることに、私は時間をかけようと思う。
共鳴を呼べるような素敵なイズムを打ちたてれば、周りが自然と広めてくれるであろうから、確立していないうちはそれほど声を大きくする必要はないのだろう。(※6)

◯伝えたいこと
キャリアセミナーでは、毎回「冒険に行こう!」というタイトルで、「いってみよう!やってみよう!」というメッセージを伝えている。
しかし、これはやたら遠くに行ったり、どでかいことをすることを求めているのではない。
あなたにとって大きな意味を持つのであれば、行く場所はどこでも構わないし、やることはなんでも構わない。
私は、いつもインドに行った時の話をしているが、それより遠いアフリカでも構わないし、それより近い東南アジアでも構わない。
もちろん国内でも構わないし、隣町でも構わない。
そこにあなたのイズムのヒントが転がっているのだとしたら、なんと素敵なことではないか。
インターネットで世界は小さくなったと言われるが、それは間違いである。
あなたの世界観は・・・少なくとも世界観を打ち立てる重要性は大きくなったに違いない。

あなたのドラマを、あなたの言葉で、生きて欲しいと思います。
あなたのイズムを、風の便りで聞ける日を楽しみにしています。

読んでくれて、ありがとう!


※1 「イズムを貫く支えとなる」という理念で、伊豆ム司法書士事務所というのは本当にいいかも知れない。
※2 マズローが晩年に第6の欲求「コミュニティ発展欲求」を考えていたという説があるらしい。真実はさておき、私はそういったものを全く否定しないが、それは少なくともカクジズムを確立してからでもいいのではないかと思う。もちろん、イズムの旅路の中で、コミュニティと触れることは避けられないし、時には触れていくべきだが、振り回されては元も子もない。あなたが自然体で生きていく中で、無理をせずコミュニティと触れるべきだろう。草木は自らが生きることを優先していると思うが、それでも酸素を創りだしたり、根を張り川の流れを緩やかにしたりなど、世界に安らぎを与えてくれている。人間で言えば、自分の専門性(スペシャリズム)を活かす道を、全体性(ジェネラリズム)の中で考えればよいと思う。専門性を犠牲にするのは不自然であるから、そうではなくてそれを貫くのが先決だろう。そうすれば、自然にあなたの周りにコミュニティができるのではないだろうか。(もちろん、その専門性に徳が付随していることが前提ではあるが。)
※3 もちろん、チームで一つの目標を目指すことが陳腐化したということではない。むしろ、長い人生のどこかでは、こういった経験は重要だと思う。
※4 光スイッチ説という仮説らしい。浪漫があって、いい説ですな。
※5 ただし、最初はよくわからないカクジズムも出てくるかもしれない。カンブリア紀でも、今から考えると変な眼を持っている生命体がいたようだ。例えば、オパビニアという生き物だ。眼が変なふうに5個もあって、気持ち悪い。現代には似たような魚類もいないようだし、文字通り目の付け所が悪かったようだ。しかし、こういった挑戦が、未来を創るのだろう。
opabinia61.jpg
オパビニアMUSEUMより引用)
※6 例えば、星のり店の哲学「ホシズム」の素晴らしさは、ついつい広めたくなるんですよね。
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【2012/11/12 20:53】 | その他
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