Nano Communication's Law

その他
09 /06 2010
日曜日の河北新報の投稿欄の一つである「声の交差点」に面白い記事があった。
テーマは、「パソコン・携帯電話」だ。

半身まひの私にとって、特にパソコンは、いの一番に欠かせないIT機器です。(中略)失語症の上に、思うように字も書けないわたしには、絶対になくてはならない存在です。コミュニケーションの「原点」であり、仮にこれらの機器がないことを想像すると、身の毛がよだつほどです。

これは、先日私がブログで書いた社会に期待していることそのものである。
テクノロジーには、バリアを破る可能性がある。
さらに言えば、テクノロジーは決してマイノリティの人のバリアーだけを取っ払うものではない。
例えば、メガネやコンタクトレンズの恩恵に授かっている人は、社会には数多と存在する。
目が悪いだけの人が障害者と言われないのは、メガネなどがあまりにも当たり前になっているからに過ぎない。
視力補正がマジョリティなものになっているから、安心して?目が悪くなれる。
テクノロジーのおかげで、何不自由なく生活をすることができているわけである。

ところで、テクノロジーの意義は大きく2つあると思う。

1.不可能を可能にする。
2.可能を便利にする。

例えば、1.仙台にいる人と東京にいる人が話をしようとする場合、電話があれば話をすることが『可能』だ。
そして、2.携帯電話があれば、より『便利』に話をすることができる。
1.は0を1にする作業で、2.は1を10にする作業だろう。

ここで重要なのは、利便性を手にしても、可能性を手にした時ほどは、心の琴線は揺さぶられないことだ。
テレビゲームを思い出して欲しい。
最も感動したのは、最初に手にしたハードだったはずだ。
アラサーの大多数は、ファミリーコンピューターだろう。
その後の、PCエンジン、(メガドライブ)、スーパーファミコン、(32X)、プレステ・・・
いずれも、ファミコンよりも優れたマシンだが、ファミコンほどの感動はなかった。

同じように、コミュニケーションの手段も、時代が進むにつれてどんどん『便利』になってきている。
ポケベル、携帯電話、メール・・・最近ではツイッターなどのSNSもそうだろう。
しかし、どんなに『便利』なツールが出てこようとも、対面でのコミュニケーションの感動には到底及ばない。

そして、幸か不幸か五感が機能する人間ほど、対面でのコミュニケーションを重視すべきだと思う。
人間はないものねだりをする生き物で、五感のうち満たされているものを喜ぶよりも、満たされていないものの虚しさを感じる気がする。
相手が、どんな表情で、どんな声で、どんな匂いで、話しているのかを知りたくて仕方がない生き物だ。
TPO次第では、お触りもありだ(舐めるのも同様)。

全てのツールはリアルシーンのための前提に過ぎない。
パソコンの前でキーを打っているだけでは、感動はできないのである。
ナノテクノロジー化が進み、今よりもさらに地球上の点と点を結ぶようなナノコミュニケーションが可能になっていくのだろう。
もっと『便利』な世の中が来るのだと思う。
しかし、それが感動にあふれた世界であるかは疑わしい。

リアルを代替するものは、リアルにしかないのである。
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