足るを知る者は富む

その他
04 /24 2013
(この前、鹿島台に言ったら田んぼだらけで、懐かしくてよかった!」
ということを言おうとしただけなのに、やけに長文になってしまいました。
ごめんなさい。
相~当~お暇な方だけお読み下さい。
時間を奪ったことに対する責任は負いません。

ただ、時間がない方でも、最後の方にある「おーい、でてこーい」は見る価値がある動画だと思います。)


先日、鹿島台に行く機会があった。
駅から目的地まで3キロ弱。
駅前の少し賑やかな町通りを離れると、程なく広大な田園地帯が広がった。
驚いたのは、目に飛び込んでくるその光景よりも、鼻の奥をくすぐる春の匂いである。
見た目には駅周辺の桜の木の方が春らしいのかもしれない。
しかしそれ以上に、田植えが終わったばかりの土や苗、森に潜む新生の息吹が、季節を感じさせてくれる素敵な香りを醸し出していた。
もちろん多賀城や七ヶ浜にも桜の木はあるのだけれども、嗅覚で春を感じさせてくれるような場所は、宮城県北部に比べると少ないかもしれない。
むしろ化学臭が漂うところも多く、自転車で産業道路などを走っていると、気分が悪くなることも多々ある。
タバコは主流煙よりも副流煙の方が有害であるのと同じく、車もドライバーよりも歩行者やチャリダーの方が毒を吸っている事は間違いない。

懐かしい匂いがした。
七ヶ浜の浜辺は実家である輪島の袖ヶ浜に似ていて、鹿島台の田園地帯は山岸の婆ちゃんち周辺を彷彿させる。
後者は一見似ているわけでもないのだけれども、鼻が似ていると言っていた。
その匂いのおかげで、とても満たされた気分になった。


少し前に、「マクドナルドのハンバーガーは、どれだけ時間が経とうとも腐らない」といった旨を伝えるネット記事を見た。
それを見てどう解釈するかは、人それぞれ。
私は、「効率化の追求による自然との断絶」が一つのテーマだと捉えた。
このテーマから湧くのは、「自分は何を食べるべきか?」引いては、「自分はどういう生き方をすべきか?」という問題であり、マックのハンバーガーを避ければ済む問題ではない。
食べ物で言えば、x軸に「生物」-「無生物」軸を取り、y軸に「スロー」-「ファースト」軸をとる座標軸の中で、どこに位置づけられる食べ物を取るかということだ。
130424パーセプションマップ
マックとモスはまだしも、それらと同列で星のり店はおかしくないか?という声は・・・却下。
自分がどう捉えるかが重要なので、自分が分かりやすい基準を持つことに意味がある。


ところで、これも(今回ではなく)鹿島台に行った時の話だが、老子の話をして下さった方がいた。
何かを付け足していくのではなく、そもそも既に満たされているという考え方。
調べてみたところ、老子33章にある
「知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。」にある、
「足るを知る者は富む」
という思想が、おっしゃっていたことかと思われる。
金を得て幸せになるということではなく、既に幸せは自分の手の中にあるという考え方だ。
GWは、金を使ったレジャーもいいけれども、タダ(もしくはタダ同然に安い)自然に触れるのもイイかもしれない。

しかも、自然は人間が生み出せないような不思議なものを生む。
一例を挙げると、ホタルの光は冷たい。物理的に冷たい。
(すいません、どんな仕組みなのか解っていません)
ホタルの光が涼しげなのは、暑い夏の太陽が落ちた時間だからということだけではなく、実際に冷たいのだ。
人間が作る灯りは、どうやったってエネルギーを使って熱を帯びてしまうのだから、これは人智を超えた凄いことだ。
世界は、万物の霊長(霊は不思議という意味)の想像を超えた、驚くほどの不思議に満ち溢れているのである。

自然は、社会に応用できる学びももたらしてくれる。
経済の場面で言えば、商品ライフサイクルは春夏秋冬のごとく移ろい、企業のM&Aは細胞内共生のごとく振舞う。
人が社会の中で産み出す概念は、大抵は既に自然の中にあるのではないか。
バブルが崩壊することも、ルシャトリエの原理からすれば当然だ。
そしてさらに、同じくルシャトリエの原理で言えば、効率性を高めるほどに、地球からのしっぺ返しも大きくなるということだ。

これからも効率化は多くの人々が生きることを可能としてくれるのだろうけれども、それは大量のエネルギーを前提としている。
人は、長い年月を経て地球上に眠っている資源を、誰の断りもなく強奪している。
今までも、そしてこれからも。
そのような放埓の限りを尽くした後、地球上のエネルギーが完全に枯れ果ててしまった時に、賄い切れない人をかかえた人類は、一体どうなるのだろうか。
そんな時でも、地球は我々を助けてくれるのだろうか。
残念ながら、それはないと思う。
先ほど、細胞内共生という言葉を挙げたが、それが成り立つのは、ある種のギブ・アンド・テイクがあってこそだ。
真核細胞にとっては「酸素を無毒化させられれば・・・」、ミトコンドリア型細胞にとっては「データを管理するしくみがあれば・・・」というそれぞれのニーズを、お互いが満たしてくれたからこそ、両者が一つの細胞の中で生きることができたのである。
そして、そのギブ・アンド・テイクが数十億年を超えて、私の細胞の中に細胞核とミトコンドリアとして生きているのかと思うと、大変感慨深い。
一方、人と地球は、このような関係性にはない。
人は地球に対してはがん細胞みたいなものであり、害はあれども益は全く持ち合わせておらず、一方的なテイクのみである。

がん細胞と異なる点としては、宿主の方が圧倒的に強く、寄生して支配し尽くすことはできないことだろう。
そして、地球の歴史上5回の生命体大量絶滅があったことを考えれば、私達がその後を追うことは十分あり得る。
それも、予想以上に早く。
後に、地球上に知的生命体が現れた頃、その歴史の1ページには「大量絶滅の中で、最短で絶滅した生物」としてホモ・サピエンスが載っていることだろう。
「自分たちのことを霊長類と呼んでいた。」という記述に、未来の知的生命体がウケてくれるのであれば、文字通り体を張ったギャグと言える。

効率化のそもそもの問題は、「効率化により、私は本当に豊かさを得ているのだろうか」というものだ。
産業革命からの歴史を見ると、エネルギーの利用により、肉体労働は減っているものの、知識労働はむしろ増えていて、効率化と言うよりは単に使用する部位が変っているだけな気がする。
働いている時間が減るわけでもなければ、幸福感が増えるわけでもない。
確かに古くの効率化は、大幅に肉体労働が減って大いに楽を得たのだろうけれども、昨今の効率化は80点を85点、90点にするようなもので、恩恵は少なくなってきている気がする。
掃除機がルンバになったら、そんなにラクなんだろうか?
(ルンバを否定しているわけではないです。念のため・・・)

更にいうと、頭脳重視の流れは生き方を画一的にしてしまい、多様性の欠けた生きにくい社会にすると思う。
ドラッカーはネクスト・ソサエティは知識社会が進み競争が激しくなると言っているし、既にそうなっているのだろう。
それでも、個人的な願いとしては、豊かさを感じられる別のポジションが存在する世界になって欲しい。
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気づけば右上の事象にいるとしても、そこだけが幸せを感じられる場所とは限らない。
今のポジション以外で幸せな場所はあるはずなので、そこを目指すことは自分らしさを見つける旅でもある。
人生をかける価値はある。

効率化は、将来へのつけを回している面もある。
原発にしても、エネルギーへの渇望の産物である。

星新一原作のボッコちゃんに収録されている「おーい、でてこーい」は、ある意味では3.11の福島原発を予言している小噺である。
(このアニメもいいですけど、原作はもっと寒気がするぐらいエグいです。。。)
今の人類は原発を産み出してしまう性質を持っているから、私は東電を叩く気は起きない。
自分だって、このエネルギー社会の構成員であり、その意味では加害者なのだから。
そんな自分が、今すぐできることは、低エネルギーで生きていく方法を考えて実践することぐらいだ。
移動は徒歩や自転車、公共交通機関を利用すること、使っている部屋の電気以外消すこと、ゴミ処理に無駄なエネルギーを使わないように心から欲しいものだけ買うこと・・・など。
本当にちっぽけなことだけれども、主語をことさら大きくせずに、まず自分がどうしたいのか?何ができるのか?が重要だと信じている。


鹿島台で懐かしい匂いで幸せな気持ちになれたのは、大きな発見だった。
世界は既に満ち足りている。
五感を研ぎ澄ませて、世界を感じて生きていこうと改めて思う。
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